Human
Rights and Social Work : Towards Rights-Based Practice
(人権とソーシャルワーク:権利を基盤とした実践に向けて)
Cambridge
University Press
Jim
Ife
本書は、私たちが3世代の人権思想を具体化することで伝統的法的枠組みの限界を超えるということを議論している。現代の人権課題を論じ、いかに人権に関する幅広い理解がソーシャルワーク、コミュニティデベロップメント、対人サービスにとって中心となる実践の形式を確立するかについて示すものである。議論は、人権の思想における理論的分析の領域を越えて、専門的実践とソーシャルアクションの領域にまで渡っている。グローバリゼーションについての現代的討論のコンテクストおよび国際主義者的視点をすべてのソーシャルワーク実践に組み入れる必要性の中において示されている。この解明に向けた研究は、国際人権を推進する挑戦に対して重要な新しい観点を加えることになる。
ジム・アイフ氏は西オーストラリア州パースにあるカーティン工科大学の社会福祉社会政策学科教授であり、国際ソーシャルワーカー連盟人権委員会委員長である。以前彼は西オーストラリア大学の社会福祉社会政策学科教授であった。また、アムネスティインターナショナルの前オーストラリア支部会長であった。その他の著書として、Community Development(2nd edition,
2001)およびRethinking Social Work: Towards Critical
Practice(1997)がある。
目次
謝辞
序
1 Human Rights in a Globalised World
2 The Three Generations of Human Rights
3 Public and Private Human Rights
4 Culture and Human Rights
5 Human Rights and Human Needs
6 Human Rights and Obligations
7 Ethics and Human Rights
8 Participations in the Human Rights
Discourse
9 Constructing Human Rights for Social
Work Practice
10 Achieving Human Rights through Social
Work Practice
11 Respecting Human Rights in Social
Work Practice
12 Conclusion: Prospects for Human
Rights Practice
Appendix I The Universal Declareation of
Human Rights
AppendixII Other Human Rights
Declarations, Treaties and Conventions
References
Index
序
人権は、現代論説においてもっとも影響力のある思想を象徴している。個人主義、欲、裕福になることが人生でもっとも大切であると考え、同時に私たちの行動を判断するためのゆるぎない従来の道徳的立場がポストモダン的相対主義の泥沼に陥ろうとしている経済的グローバリゼーションの世界において、人権の思想は人間の価値を再確認しようとする人々に対して新しい道徳的根拠を提供するのである。
本書は、人権が重要であり、特に対人サービス専門職全般やソーシャルワーカーにとって重要であるという信念の下に書かれている。とりわけソーシャルワーカーを人権専門職として位置付けることによって、ソーシャルワークが直面している多くの課題やディレンマを新しい視点で見ることが可能になる。さらに、人権は‘クライエント’との日々の活動のみならず、コミュニティデベロップメント、政策提言、行動主義においてソーシャルワーカーに対しそれらの実践の道徳的基盤を提供する。まさに人権の観点は、それらの様々な役割とソーシャルワーク実践の統合的・全体論的視点を結びつけようとするものである。本書は、ソーシャルワークが人権専門職であるということが何を意味するのか、またソーシャルワーク実践のためのそのような観点との関係を考察しようとしている。
第1章は、人権を定義することおよび残りの章の基盤を形作る人権の多面的理解のコンテクストを示すことでバックグラウンドを提供している。また、人権の実践を理解するために必要なコンテクストとしてグローバリゼーションを検討している;これは人権についての近年の関心急増がグローバリゼーションに対する反動であり、人権はグローバリゼーションへの対抗が具体化・結晶化する主要なテーマなので特に重要である。
第2章は、人権の3つの‘世代’について論じる。この幅広い観点がどのように人権専門職としてのソーシャルワークを理解するための枠組みを提供するかについて提示する。第3章〜第8章は、人権に関する異なる理論的・概念的課題を論じる:公/私の区別、文化的相違、権利とニーズの関連、人権と調和する義務、権利と倫理の関係、人権論説における参加。それぞれのケースにおける議論のソーシャルワークにとっての意味を明確化する。
残りの章は、何が人権を基盤としたソーシャルワークに関係しているかを説明している。それらは、ソーシャルワーカーがいかに実践基盤としての人権の多面的理解と関わるべきか、ソーシャルワーク実践が人権を実現・擁護するためにどのように機能しているか、またソーシャルワーク専門職自身の過程と構造にとっての人権観点の意味について論じている。
人権に関する理論的課題は複雑であり、あらゆる人権の探求はそれらを扱わなければならないが、ソーシャルワークは理論的探求が矛盾、不確定性、一般的無秩序状態にあるソーシャルワーク実践の困難な世界の現実に基づき、さらに関連していなければならないことを要求している。この応用された実践的焦点は一貫して維持され、本書がそれゆえに実践家にとって価値および実用性を示すものとなっている。
本書は、国際主義者的観点で書かれている。ソーシャルワーク実践は常に位置している文化や社会の中で文脈化されなければならないが、人権は普遍的論説であり、共通なる人間性とグローバルシチズンシップの思想を基盤としている。それゆえ、本書は異なる国家や文化においても適用性を持つことを期待している。世界中のあらゆる所でソーシャルワーカーの関心である課題を扱い、熟考した決定はあらゆる特定の国家的・政治的・文化的コンテクストにおいて独占的に位置付けないようにしている。しかし、筆者が西洋文化的バックグラウンドを持ち、西洋白人男性の支配的な意見を表明しているという事実は、多くの読者に疑いなくそれらの思想をそれぞれの実践的ニーズに合わせて、挑戦又は再解釈することを希望している。まさに本書は、その期待を持って書かれており、読者は特定のソーシャルワークコンテクストに合わせるためにその考えを再構成することを勧める。
言葉の使い方についても指摘しておく必要がある。ジェンダー的言語を避けるために、個人的代名詞の非文法的複数形語を使用するのではなく、‘彼の/彼女の‘や‘彼女は/彼は’などの扱いにくい言葉を無作為的に選びながら使用する。特にアメリカ人の読者にとって、‘リベラル(liberal)’という言葉は、より詳細な説明が必要かもしれない。本書では、アメリカのメディアで出てくる意味―つまり、社会民主的理想を持つ人―としては使用していない。むしろ、より哲学的意味を持ち、啓蒙思想的良識と進歩のコンテクストにおいて、個人主義や自由に価値を置く人のことを意味している。困難性を持つもう一つの言葉は、‘クライエント(client)’である。それは私が使いたくない言葉の一つである(第11章でその理由を説明する)。しかし、別の言い方、例えば‘消費者(comsumer)’や‘顧客(customer)’という言葉はさらに使いたくない。可能であれば‘人(person)’や‘個人(individual)’という言葉を使用したいが、時々‘ソーシャルワーカーと共に活動している人(その他このような言い方)’といったぎこちなさを避けるため、さらに表現を簡潔にするため、別の良い言葉が見つからないために、私はためらいを持ちながら‘クライエント’という伝統的な用語を使用するに至っている。ソーシャルワーカーは本書が意図している主要な読者であるが、本書で探求している考えは、ソーシャルワークの領域を越えて適用できる。そして、役立つと考えるその他の人々が出てくることを希望するので、ソーシャルワーク的専門用語を最小限に使用することを試みた。
私のこれまで著書を書いてきた経験の中で大きな喜びの一つは、多くの異なる人々から受け取ったフィードバックであり、いくつかの重要な継続する対話につながっている。私はあらゆる読者から―学生、教育者、実践家など―本書について応答 したい人々からの意見を歓迎する。対話(dialogue)の精神において。
第1章
グローバル化した世界における人権
人権の概念は、現代の社会学的、政治学的論説(discourse)としてもっとも力を持ってきた。多くの異なった文化・思想的背景を持つ人々によっても疑いなく認められている概念であると同時に、多くの異なった、もしくは対立する主義・主張を支援するために誇張して使用されている。人権の強い魅力性と誇張力によって、たびたび漠然と使用され、異なった文脈においては、異なった意味を持つ場合がある。しかし、使用している人々はその多様な意味や矛盾について熟考しようとしない。人権の概念は、強い魅力と矛盾を抱えており、特にソーシャルワーカーや対人サービス専門職にとってどのような意味を持つかについて再考する必要がある。
本書は、人権の観点がソーシャルワーカーにとってどのような意味を持っているかについて論じている(Center for Human Rights 1994)。人権専門職としてソーシャルワークを位置付けることは、ソーシャルワークの概念化、実践化の方法として確実な重要性を持っている。
そのような観点は、ソーシャルワークの伝統的理解と実践を強化し、価値を高める一方、ソーシャルワーク専門職のいくつかの前提に挑戦することになる。本書の立場は、人権の観点は、どのような状況においても、ソーシャルワークを強化し、ソーシャルワークの社会正義の目標を実現するための断定的な強い実践基盤を提供することを論じている。しかしながら、人権には論争や問題も存在する。ソーシャルワークのための人権基盤を発展させるためには、人権の思想とそれに関連した問題や批判が注意深く検証される必要がある。本章以降では、人権についてあらためて検討する必要がある。
多くの論者は、人権の観念は、現代西洋社会の枠組みで概念化してきた啓蒙思想の産物であると論じている(Wronka 1992; Galtung 1994; Beetham 1995; Bobbio 1996; Pereira 1997; Bauer &Bell 1999)。人権思想及び表現が植民地支配者による西洋独占の表れであるという批判があり、人権の概念を使用すべきではないという提言でもある(Aziz 1999)。人権の現代的理解は、西洋啓蒙思想によって形作られてきたことは事実であるが、政治的討論においてたびたび使用される多くの概念;民主主義・正義・自由・平等・人間尊厳についても同様の論理がある。西洋啓蒙的連想によるというだけで人権という言葉を使用しないというのは、文化を超えたそれらの力と重要性を否定することになり、無益で制限された政治議論につながるだろう。ここで必要なことは、西洋モダニズムの束縛から解放することであり、よりダイナミックで包括的、総合的、比較文化的に人権を論じる必要がある。これが本書で採用するアプローチである。ただし、文化的な課題や文化相対主義の疑問はたいへん重要であり、第4章でその詳細を論じたい。
人権の思想が西洋的共示により否定すべきであるという議論には、反対する強い理由がある。なぜなら、人権の思想が西洋独自の概念であるということは、単に真実ではないからである。人権の思想は、言葉として使われなかったとしても、様々な主要な宗教的伝統や文化的形式にもみられる(Von Senger 1993; Ishay 1997)。人間の尊厳・価値、すべての人々がある一定の基本的基準によって扱われるべきだという思想、人々は人権侵害から守られるべきであるという思想、他人の権利を尊重するという思想などは、西洋理論的伝統に限定される考えではない。そうであると仮定するということは、支持を受けている他の宗教的、文化的伝統の価値を下げることになる。真実であるかは別として、一般的に人権はこの200年間で啓蒙思想を起源として発生してきた最近の概念であると言われている。啓蒙思想は人権の現代西洋的枠組みの構成において重要であり、人権の思想は言葉として使用されてはいないかもしれないが、より早い年代の思想的書物を反映してきたことは事実である(Blickle 1993; Coleman 1993; Dupont-Bouchat 1993; Von Senger 1993)。
人権は、経済的グローバル化によって脅威にさらされている現在こそ、派閥主義やdivisivenessを乗り越え、異なった文化、宗教の伝統をもつ人々を統合し、人間の普遍性と価値を共鳴するために、強力な論説となっているのである(Rees & Wright 2000)。人間性の価値を普遍的に有効にするというアピールによって、人権の思想は文化と伝統を超えて共鳴し、公正・平和で持続可能な世界を求めている人々にとって重要なスローガンになる可能性がある。
3p
文化的偏見の批判に加えて、人権の観点に対する批判的立場として二つ挙げられるだろう。まず第一に、人権の主張は、取るにたらず、自己中心的になりうるという批判がある。つまり、人々は単純に個人の自己中心的欲求を表現したときに、人権として何かを要求する場合がある。たとえば、家を買う、車を買う、クルーザーを持つ、レストランで喫煙する、飛行機でビデオを観るなどが権利として要求される。それは、消費者運動や単なる甘やかしになる可能性もある。第二に、人権の要求が互いに争う要因となる。争う要求を調和させるという問題に直面する。例えば、表現の自由の権利は、中傷、名誉毀損から逃れる権利と相反する(Holms & Sunstein 1999)。人権の論説は、それらの批判をどのように克服するかについて説明する必要があり、次章以降において論じていく。
多くの人権に関する学術的論争は、理論的レベルで留まっている。人権の実践について論じたものは少ない。重要な例外が法律専門職である。法律専門職は、人権法の専門化を発展させ、人権尊重及び擁護において重要な役割を担ってきた。法的枠組みにおける人権の実践は、他の対人専門職(医療、教育、看護)の分野での適用性に限界がある(Galtung 1994)。このことについては、第2章で詳しく論じる。上記の他の専門職は、対人専門職にとって人権が重要であると認識し、それらの実践は法律のよる不自然な実践を超える方法として人権を発展させようと試みている。しかしながら、それらの専門職の研究は、特定の人権の枠組みを基にして理論や実践を定義できていない。それらの職務が人権を基盤にしていると主張するために、人権が実践においてどのような意味を持つかについての意見はほとんどなく、人権は良い考えはあるが、ソーシャルワーク実践の理論や方法の発展のための確固とした基盤にはなっていない。本書は、人権の観点がソーシャルワークのような人権専門職の実践においてどのような意義を持つかを論じることによって、これらのギャップを解消することを試みたい。そのことは、人権についてのいくつかの重要な理論的、概念的課題を提起し、ソーシャルワーカーをより明確に人権活動家として位置付けるための方法として、人権をどのように実践に結び付けていけば良いのかを論じることになる。一般的に、‘人権活動家(human rights worker)’という言葉は、人権を専門とする弁護士やアムネスティのような組織で働く活動家に対して使うものである。本書は、ソーシャルワーカーもまた同様に人権活動家として位置付け、ソーシャルワークを人権活動として位置付けた場合のいくつかの課題について確認したい。
4p
ソーシャルワーク
本書で扱われるトピックの多くは、幅広い対人サービス専門職:教員、医師、医療関係専門職にあてはまるが、主要な論議の中心はソーシャルワークである。それゆえに、異なった国家や文化において異なった意味を持つ‘ソーシャルワーク’を言葉として分類する必要がある(Tan & Envall 2000)。いくつかの社会、特にオーストラリア・北アメリカ(カナダ)では、ソーシャルワークはかなり狭い範囲で定義された高度な専門的資格・職業であり、対人サービス従事者を除いている(Ife 1997a; Leighninger & Midgley 1997)。その他の国では、様々な分野でのバックグラウンドや教育的資格をもつ対人サービス従事者を含む場合もある。イギリスでのソーシャルワークは、法的サービス供給を通した福祉国家における政策実行であり、コミュニティデベロップメントや社会変革における役割は比較的小さい。一方、ラテンアメリカでは、進歩的および活動的意義を持つ。さらにソーシャルワークは、社会変革、社会正義や人権のための進歩的行動、官僚的・政治的支配に対する抵抗という色合いが強い(Aguilar 1997; Cornely & Bruno 1997; Queiro 1997)。アメリカ合衆国におけるソーシャルワークは、個人を対象とした治療的役割を持っている(Leighninger & Midgley 1997)。開発途上国では、ソーシャルワークのコミュニティデベロップメント志向が強い。オーストラリアとニュージーランドのようにとても似ていると思われている国同士でさえ、ソーシャルワークの構成や実践基準が異なる場合がある。
ソーシャルワークの基盤における文化的、社会的、政治的状況を重要視するということは、ソーシャルワークが異なった地域において異なった形によって構成されていることは避けられないことを意味する。これらの違いが関心や実践の多様性を認めることにつながる利点となる。しかし、ソーシャルワークの幅広い考え方が論議されている状況において、異なった観点の研究を鵜呑みしてしまうという問題も生じる。または、ソーシャルワーカーが文化的・国家的境界線を越えたときに、曖昧さや誤解をもたらす原因にもなりうる。
本書は、ソーシャルワークの本質について幅広い視点から論じることを目的とし、特定の専門職、社会コントロール、保守的・進歩的・治療的・開発的枠組みについて限定しているわけではない。
5p
本書におけるソーシャルワーク概念は、社会サービス、コミュニティデベロップメント、社会変革に関わるすべての職業を含んでいる。本書の目的は、次章以降で論じる人権の観点が、文化的・国家的・政治的な相違性を許容する一方で、ソーシャルワークとして位置付けられた様々な活動が結合する人権についてある一定の共有した枠組みを提供することである(Centre for Human Rights 1994)。
ソーシャルワークは、専門職としての中核的価値基盤を定義する伝統がある(Tan & Envall 2000)。ソーシャルワーク論者たちは、この価値基盤の重要性をたびたび強調してきた。つまり、ソーシャルワークは中立的・客観的・無価値的活動ではなく、価値に基づいた職務および問題に対して特定の主義に基づいた立場を採用している。この価値基盤を構成するにあたって、人権の思想はしばしば ‘個人が生まれ持っている価値’や‘自己決定権’のような絶対性を持つ。そして、そのような言葉は、かなり限られた形ではあるが、人権をソーシャルワークの中核をなす。しかし、大抵それらの権利の性質、実践においての意味、さらに人権を理解することがソーシャルワーカーの日々の職務において実際に及ぼす影響などについて殆ど詳しい説明がない。専門職の倫理綱領は、人権思想に対して何らかの係わり合いを持つ傾向にある。tend to imply some commitment to an idea of human rights, since it is often from an implied human rights position that the ethics of social work are derived (Corey et al. 1998)。このことは第7章で詳しく論じたい。これは人権に対するバラバラのアプローチであり、人権思想に対して立ち向かっているとは言えない。専門職の倫理綱領や初歩的テキストのような文書に含まれている人権の構成は、人権がまるで自己存在し、全く問題がないものように扱われている。権利についての広範囲にわたる研究の考察でさえ誤解を含み、単純化しすぎる立場をとっている場合がある。
人権に対する多面的アプローチ
人権に関する多くの課題や論議が、次章以降で論じられ、ソーシャルワーク実践への有効性が確認されるであろう。最初に、本書で採用する人権に対するアプローチについて言及することが重要である。本書は、権利に対する実証主義的概念、つまり人権が客観的な形で存在し、発見可能であり、経験的に測定可能であるという立場はとらない。
人間のagencyとしてなんとなく独立して存在しているという権利の思想は、社会科学における実証主義概念の特徴である。つまり、社会現象が独立的・客観的に存在し、社会科学者の役割を客観的経験的調査に基づいて社会現象を管理する法律を作成することとみなすことである。実証主義は、社会科学研究分野において継続的に批判の対象となっており、(Fay 1975; Keat 1981; Lloyd & Thacker 1997; Crotty 1998)本書の立場は、そのようなパラダイムとは反している。なんらかの方法で‘存在するもの’として権利を理解することが、客観的科学的調査によって証明可能であるということはなく、本書では人権をより多面的なアプローチで解明していく(Woodiwiss 1998)。言いかえれば、人権は人間の相互作用及び共通の人間性を構成すべきものについての継続的対話を通して構成されるものである(Howard 1995)。それゆえに、人権は固定的でなく、異なった時代・文化や政治的コンテクストにおいて多様である。もっとも有名である世界人権宣言は、20世紀でもっともすばらしい人類達成の象徴として称されているが、具体的なものではなく、普遍的で恒久の真実でもない。1948年の世界の国家リーダーたちによって承認された文書の一つである(本書の資料を参照)。重要な強い影響を持つ印象的ですばらしい声明であり、多方面で利用されてきた。しかし、それは聖典ではなく、異なった声明が作られ、異なった課題が優先されるように、異なった時代において変化への挑戦を受ける可能性もある。このことは、人権に関するすべての声明にあてはまる。何をもってすべての人間の基本的権利を構成するかは、継続する討論と再定義の対象であり、常に開かれた議論が可能である。世界人権宣言は、西洋政治リーダーたちが西洋的先入観で作成したという批判もある(Wronka 1992; Chomsky 1998)。しかしながら、そのような普遍的声明の思想を拒否するのではなく、認めうる異なった意見の観点から継続的な再構築をしていく議論が必要である(Mahoney & Mahoney 1993)。
P6
ロックによって議論された啓蒙思想において扱っている人権は、人間がその人間であるがゆえに、生まれながらに持っている自然権である(Simmons 1992)。人間は同じように扱われる必要があるという共通の人間性から人権思想が生まれた(Feinberg 1973)。この思想では、誕生時から私たちはすべてにおいて平等であり、自然に平等の権利を所有している。自然に存在している権利の思想は、人権に対する実証主義的な枠組みのように見えるが、必ずしも多面的な人権の思想には矛盾していない。それは、人権が共通なる人間性の結果であるという考えの単なる肯定である。しかし、やはりどのように自然権を理解しているかについての多面的構成の論議とは矛盾していない。
P7
人権の思想は、本質的に、文化、信条、年齢、性別、能力、環境に関係なく、すべての人間にあてはまる普遍的原則の探求である。そのような普遍性は、多くの伝統的な人権理解の枠組みには欠けていたといえる。なぜなら、すべての人間を‘人’として扱ってこなかった歴史があるからである。男性(man)の権利やロックのような伝統的愛国主義的思想は、女性を‘人’として扱わず、人権の定義からも排除した。トマス・ジェファーソンは、おそらく権利と自由の要求と奴隷の所有になんの矛盾も見ていなかった。ホロコーストの犯罪者たちは、ドイツの文明社会の発展を享受すると同時に、ユダヤ人を人間以下とみなす行動を肯定化した。アパルトヘイト(南アフリカ)、インドネシア軍(東チモール)、スラブ軍(ボスニア)も同様である(Rorty 1998)。つまり、抑圧者は犠牲者を彼ら/彼女らの人間‘human’の理解から排除し、人権理解の必要性を避けることで彼らの行動を肯定化してきたのである。これらの例は極端であり、単純な非難になってしまうかもしれない。しかし、人間性の構成及び人権の存在から疎外されてきた人々が、別の階級として存在し、私たちはそのような侵害を感じてこなかったことを忘れてはいけない。その他の例として、大人と同じ権利(選挙権のような)を持っていない子ども、知的障害を持つ人々も明らかに人権が否定されてきた。囚人、難民、高齢者に対しても同様の状況がある(Robinson & Sidoti 2000)。人権を持っている人々のカテゴリーから外すことによって、私たちは‘人間’というカテゴリーからも排除してきた。ロック、ジェファーソン、ナチスなどがしたことと同じである。このような例を考慮すると‘人権は普遍だ’と主張することは、西洋自由民主主義体制においてでさえも、ラディカルで、挑戦的言葉だといえる。
8p
人権の普遍性は、固定的、変化不可能な性質ではない。
人権は客観的存在ではなく、普遍的価値との関係を探すための対話のプロセス、討議、交換の構成である誰の声が特権的?他の人の声はどのように聴かれているか?人権の概念化とは?これらの疑問については、次章以降で検討する。そして、ソーシャルワーカーが人権が構成および再構成されるための継続する対話にどのように関わることができるのかについての議論も考察したい。
人権を定義する
人権を多面的に理解することは、人権とは固定的で変化不可能な性質ではないということを意味する。つまり、人権は完全に定義できないということである。それゆえ、本書は基本的人権を概説や定義することが目的ではない。定義化することは、何が理想的な参加的・民主的プロセスであるべきかについて、著者の意見をその他の者の意見よりも特権化することにつながる。しかし、重要なことは、人権の本質を定義するのではなく、人権の論説を議論する場合に何を意図しているのか、又は、何を人権としてみなしているのかについての定義化を試みることにある。
権利の要求は様々であり、議論に値するものもあれば、くだらないものもあり、一部の人々にしかあてはまらない権利もある。例えば、武器所有の権利、女性の権利、子どもの権利、原住民の権利、立候補の権利である。すべての権利が人権としてみなされるわけではない。人権は、その人の国籍、人種、文化、年齢、性別、その他あらゆる違いにかかわらず、すべての人々にあてはまるものである。それらの権利は普遍的であり、すべての人々や地域にあてはまる。一方で、ある特定の境遇の人々にのみあてはまる特別な権利もある。本書で概説している人権の観点では、対立がある場合に人権が他の権利主張よりも優先されている。言いかえれば、特定の個人やグループのみのために要求されている特別な権利は、すべての人々のあてはまる基本的人権に反することは許されない。例えば、私が、ある一定の給料、大学でのステータスを権利として要求し、もし大学の教育の質を下げることで権利を実行すると、権利の行使は学生の教育の権利における完全な実現を否定することになる。この権利要求の対立において、教育は人権であるが、個人的権利要求は人権とみなされない。つまり、学生の教育権は高い優先性を持っている。これは、人権アプローチを理解する上で本質的に重要なことである。何かを人権として定義することによって、私たちは他の権利要求よりも優先度が高いということを主張しているのである。
9p
普遍的でない権利要求の多くは、無権力者よりも権力者によって出されていることに気付くことは重要である。無権力者たちは一般的に他の人々が当然としている普遍的権利の要求に関心があるが、権力者は特定の特権化された‘権利’を要求する。例えば、経営権、軍備権、社会的環境的コストを使って利益を得る権利、制限のない個人財産の所有である。これらすべての‘権利’は普遍的でなく、全員が享受することはできない。それらは支配を実行させてきた権力者や特権階級の権利であり‘人権’のカテゴリーから排除する必要がある。
しかし、特定の権利要求は権力者や特権階級によって作られたものではない。例えば、不利益者のグループ、女性、子ども、難民などの権利である。このような権利要求を無視することは、社会正義の重要な課題を軽視し、抑圧の構造を強める。むしろ、そのような権利は人権の範囲に含まれなければならない。なぜなら、彼ら/彼女らは特定のグループに対して否定された人権のみを要求しているからである。例えば、障害を持っている人は特に仕事を得るのが難しい。(普遍的人権としてみなされている)意義のある仕事を持つという権利は、障害を持っている人にとって特に重要であり、‘特定’の権利の要求として含まれている。このケースにおいて、権利自体は他の人々の権利と違いはない。しかし、抑圧的構造と枠組みにおいて特定のグループがその権利を実行することが難しく、特別な供給が必要になる。これが不利益なグループの権利として要求されている多くの権利の意図である。
不利益なグループの権利には、他の人々に当てはまらない人権もある。例えば、アボリジニなどの原住民が主張する特定の土地所有権は、土地に対する太古性や歴史的関係性を理由としており、他の人々の権利としては主張できない。しかし、それらはやはり‘人権’であり、彼ら/彼女らの完全なる人間性を実現するために必要である(Janke 2000)。人々の完全なる人間性を実現する権利は、人権の考え方の中核となるものであり、原住民の土地所有権は人権のカテゴリーに含まれなければならない。同様の議論が女性の権利、子供の権利、障害を持つ人の権利、高齢者の権利などにも可能になる場合もある。それぞれのグループは、人間全体に必ずしも一般化できないが、それぞれの人間性を実現するための基本的人権の一部として特定の権利要求を持っている。この基本的権利は、特定のグループにとっては異なった権利要求ともなり得るが、普遍的人権の論説として組み入れることが可能であろう。
10P
完全な人間性を実現するために何が必要であるかをどのように定義するかについては疑問もでてくる。例えば、武器所有がその人の完全なる人間性実現のために必要であり、その権利が人権として必要だろうか?又は、レイプ者がレイプをすることが彼の人間性を最大限に実現しているといえるのか?しかしながら、そのような要求は、他の人々の人権をすでに侵害している。人権の観点からいえば、他人の人権を侵す人権は正当な主張・要求として許されない。また、抑圧と不利益の分析の重要性も指摘したい。女性や原住民の権利について議論する場合、人間性の実現を試みている人間へ不利益を与え、無能力化させる抑圧の構造と論説を認識している(Czerny 1993)。人権は、抑圧の構造と論説がその性質において人権の価値とは逆行しているというコンテクストにおいて理解する必要がある。抑圧の構造に挑戦し、克服することを目標とする権利要求は、‘人権’の思想に含まれるべきである。
上記の議論において明らかなことは、‘人権’を主張・要求することは、単に‘権利’を主張・要求することよりも強い説得力がある。なぜなら、私はそうすべきであると考えるし、権利要求の多くは‘人権’として正当化することができないからである。人権を基本とした権利要求・主張を行うために、下記の基準が必要であり、本書の目的である人権の定義となりうるだろう。
・ 個人やグループが他の人々と共通する完全なる人間性を達成するためには、主張・要求された権利を実現することが必要である。
・ 主張・要求された権利は、人間性を持つすべてにあてはまるか、権利を主張・要求している個人やグループがあらゆる場所のすべての人々にあてはまることを望むこととしてみなされている。もしくは完全なる人間の可能性の達成にとって不可欠である権利の実現が、特定の不利益者や抑圧されたグループにもあてはまることとしてみなされている。
・ 主張・要求された権利の正当性には、重要な普遍的コンセンサスがある。もし文化的、その他の境界線を越えて、広い支持がなければ、‘人権’とは言いがたい。
・ すべての適性な主張・要求者にとって、効果的に実現することは可能である。このことは制限された供給しかない場合についての権利は除く。例えば全景の見える家を持つ権利、テレビチャンネルを持つ権利、自分自身の広大な土地を持つ権利である。
・ 主張・要求された権利は、他の人権とは矛盾しないものである。武装する権利、奴隷を持つ権利、妻や子どもに暴力を振るう権利、他人の貧困の犠牲にした過度の利益追求の権利といったことを人権とは認められない。
‘人権’の分類は、人々が主張・要求するすべての人権を含まないことを意味しているのである。
人権への要求は、ある一定の厳しい審査を通過しなければならない。人権を要求するためのもっとも一般的な正当化は、いくつかの協定に関係している。もっとも有名なのが世界人権宣言である。このような人権条約が重要である理由の一つは、人権の要求があらゆるコンテクストにおいいて可能であることの理由付けをすることである。
人権は、一般に‘普遍的で不可分的’なパッケージとしてみなされている。それゆえに分離することもできないものである。これが5つの上記基準の理由である:つまり、人権は一体であり、相互に矛盾、対立するものではない。これは人権の領域において、権利に優先度を与える必要はないということ意味している。すべては重要とみなされ、いくつかがその他よりも重要であるとする必要はない。人権の観点では、権利の要求が人権として一旦みなされれば、それは最優先となり、どの権利要求よりも優先権を持つ。しかし、実践では人権の対立する要求がないとはいえない。特徴的な例は次章以降で論じる。それらは解決されるべき問題であるが、たびたび上記の基準にあてはめることによって達成可能となる。
ソーシャルワーカーにとって、人間とその他の権利の相違および人権が優先事項であるという主張は特に関連性がある。ソーシャルワーク実践では明らかな‘権利’(そのように表現されないが)と人権の間に対立が起こる例が多く存在する。一例としては、経営者(指導者)がソーシャルワーカーに人権を理由として正当化されるべきサービスを否定するように要求する場合がある。‘経営’の権利は、上記の基準では明らかに人権とは認められない。ソーシャルワーカーがその立場にあれば、人権が最優先度を持つ。このケースにおいて、ソーシャルワーカーは人権を否定する経営実践に挑戦することが倫理的に妥当とされる。そして、必要であればその人は経営の方針に従わないという良い選択をすることもある。もちろん、そのような公然の対立が賢明な行動かどうか考えるときに、ソーシャルワーカーが考慮すべき多くの状況的要因がある。「行動前に人権侵害についての資料調査を行う」、「個人的に探すのではなく、ソーシャルワーカー組合や職業集団へ持ちかけてみる」、「スーパーバイザーにインフォーマルに質問してみる」など他の選択肢もあるだろう。
人権は、普遍的、不可分的、不可譲的、不撤回的だと一般的に言われている(Cassese 1990; Centre for Human Rights 1994; Jones 1994)。普遍性と不可分性は、上記の議論において説明してきた。普遍性とは、人権はすべての人間にあてはまることであり、不可分性は、人権はパッケージとして成立する―つまり、一部のみを選択、受け入れし、別のものを拒否することはできないということである。不可譲性とは、他人からは奪うことができないということである。この性質は論争的でもある。なぜなら、法の適用は、特に人権の剥奪を罰として実行する。たとえば囚人の自由権、集団の自由、移動の権利などは否定されている。しかし、一般に人権は奪うことができず、生きている限り存在する。不撤回性は、自発的に人権をあきらめることや、人権を別の特権と売買交換することができないということである―人権は、なんとなく無くすことで済ますことができるものではない。私たちは、すべての権利をいつも実行するとは限らないが、それらの権利は所有している。たとえ権利を行使しない傾向があるとしても、少なくとも理論上は、いつでも自由に考えを変えることができるのである。
人権思想およびそのソーシャルワーカーにとっての意味についての議論展開は、本書の主題である。しかしながら、上記の定義や議論は、その言葉が今後の章でどのように扱われているかについての基本的理解を提供しているのである。
世代間の権利
過去10年の人権論説の中で起こったもっとも重要な変化の一つは、現在を越えた人権義務における理解の拡大である。もちろん、過去には重大な人権侵害が発生してきた。しかし、それらの侵害が過去の出来事であったとしても、現代の私たちにも回想的にその事実を理解し、何らかの形の償いを提供するための適切な行動を起こす責任があるという意識が現在高まってきている。スイス銀行にあるとされるナチスの財産が、ホロコーストの生存者への補償に充てられるという議論はその一例である。その他のケースとしては、例えば原住民迫害に対する政府謝罪のようなある課題に対しての金銭的な補償ではない象徴的な補償がある(HREOC 1997)。カナダでのケースのように金銭的補償も入る場合もある。過去の人権侵害の責任が認知されてきた方法は、まやかしであり、異なったコンテクストにより枠組まれてきた。例えば、リチャード・フォークRichard Falk氏(2000a)は、ホロコーストでの人権迫害への回想的理解は、1937年の南京大虐殺とは大きく異なることを指摘している。これが発生した少なくとも原因の一部は、西洋思想による冷戦のイデオロギー的命令である。Which would not have been served well by China being cast in the role of victim of human rights abuse at the hands of Japan.しかし、過去の世代の人権侵害を根拠として行動すべき程度についての全体的課題は、ソーシャルワーカーにとって特に重要である。ソーシャルワーカーは、不正義、抑圧、継続的人権侵害に関わり、数世代の人々に影響を与えるのである。
人権の時間的範囲がその論説を変更している他の点は、人権思想を未来の世代の人権にまで拡大していることである。私たちが行動するすべてのことは、世界の未来へ影響している;問題なのはどの程度までの行動が、現在および未来の世代の人権を守る必要性によって導かれるのかである。もちろん環境運動では特に重要性を持ち、未来の世代の権利を否定する行動をすることは非倫理的であると多くが論じている:例えば、自然破壊、地球温暖化とオゾン層破壊、生物的多様性の破壊などである。重要なことは、私たちが尊敬・擁護するべき倫理的義務を持つ人権を未来の世代が所有していることである(Attfield 1983; Goodin 1992)。この観点も、特にコミュニティデベロップメントや環境問題に関わるソーシャルワーカーだけでなく、世代に渡る搾取や暴力の循環および未来の世代に影響する抑圧や構造的不利益(コミュニティの構造や相互義務の集団的観念の破壊など)の構造を打ち壊そうとするソーシャルワーカーにとって影響力を持つ。
このような人権についての時間的範囲は、人権に対する比較的新しい理解であり、関連する義務である。私たちは、空間的に人権、つまりコミュニティ及び国家同士の義務について考えがちである。過去に遡ったり、未来までつながるという人権義務があり、現在の行動にも影響するという時系性はない。この特性は重要である。なぜなら生きてきた又は次世代として生きていく人々の人権だけでなく、私たちに歴史的に考えさえ、行動を歴史的文脈に位置付けさせ、人権の定義と実現が、固定的でなく重要な歴史的側面を持っていることを理解させるからである。
動物権
人権の定義について論じる一方で、このことが他の生物にもあてはまるという観点から人間以外の生物に対する権利について論じることも重要である。動物権は、近年注目を浴びるようになってきた。人間中心の観点とは異なる環境中心の観点(Fox 1990; Eckersley 1992)は、権利が人間だけでなくエコシステムの一部分として生きるもの全てに属するものだと考えている。
本書は、動物権については考慮していない。そのような主張に同意していないというのではなく、本書が特に共通なる人間性の美徳によって他の人間へ与える権利:人権について論じているからである。ここで論じている人権への多面的アプローチは、人権と動物の権利にはっきりと区別を持っている。人間は、他の生物には不可能な方法で人権についての表現および議論をすることができる。それゆえに、他の生物による権利を表現しようとすることは、他の生物のために他の生物の権利を人間が定義していることになる。つまり、人間が他の生物に対してどのように行動すべきかについて示していることになる。しかし、そのような定義は、他の生物の一員として一定の方法で互いに行動するための義務を示すものにはならない。反面、人権は自分たちの権利を定義、尊敬、擁護、実現する方法において互いに行動する人間についてであることに他の生物の権利と違いがある。本書のテーマに立ち返ると、上記のことは、人々が人権の論説と関わることによる過程を促進することを目的としているソーシャルワーカーにとって重要である。そして、それは単に人間以外の生物にあてはまらないだけである。権利に関して他の生物の扱いは、異なった観点で行わなければならない。重要な課題であり、私たちの人間性をどのように定義するかに関係し、世界の状況のエコロジカルな理解にとって不可欠である一方で、それでもなお本書の目的外といえる。
しかし、人権の真なる思想は、定義上は人間中心主義である。この立場は、つまり人間以外の生物を他のものとし、権利を異なって扱う必要があるとするものだ。しかし、動物権の強い主張は、人権の観点と完全に矛盾していない。人間の権利に価値を置く一方で、他の生物の権利を荒く扱うべきではない。そして、人権は必ずしもすべての場合、動物権より優先度が高いわけではない。人権実践の原則の一つに、‘権利の要求が対立したとき、弱者の権利がより強者の権利よりも優先されるべきである’という考えがある。これはすぐに、人間以外の義務についてもあてはまる。それゆえに、人間中心の人権と環境中心主義の動物権を必要に対立させて組み立てるのはあまりに単純すぎるといえる。
グローバリゼーション
人権は、グローバリゼーションの圧力によって特別な現代的社会性を与えられてきた。いくつかの点において、グローバリゼーションを検証することは重要である。なぜなら、この検証はソーシャルワークが21世紀初頭に実践するコンテクストを提供するからである。さらには、人権はグローバリゼーションについての現代的議論の重要な要点と対立視点を批判的に提供するからである。
グローバル経済は、新しいものではない。世紀にわたって世界貿易は存在し、グローバル経済のいくつかの形は、国民国家の発展よりも早く出現している。そして、現在国民国家はグローバリゼーションの脅威下にあるとみなされている。他の著者(Hirst &Tompson 1996,2000)によっても、グローバリゼーションは、他の現象と比較しても、頻繁に主張されてきた新しくない現象であり、変化というよりは歴史的連続性であると論じられている。これは重要な批評であり、下記に提言しているように、グローバリゼーションについての多くの歴史的連続性は、あまりに容易に無視されている。しかし、新しく現れたグローバル経済と主要プレーヤーの経済力のsheer scaleによって引き起こされている重要な不連続性もある。最近まで、世界貿易は繁栄してきたかもしれないが、国家政府の支配によってコントロールされてきた。貿易のルールや基準を定め、多くの場合、それぞれの国家の利益を拡大するために世界貿易を利用してきた。しかし、世界貿易は現在巨大に成長し、国境を超えた企業が強力化し、世界貿易を規制し、計画的に利益を得る政府の能力が厳しく制限されてきた。ほとんどすべての国家政府は、グローバル市場の命令に服従しており、‘市場を不愉快に思う’ような政策をとることはできない。なぜなら結果は瞬く間に資本の逃避、通貨危機、経済崩壊につながるからである(Held et al.1999; Meyer & Geschiere 1999; Mittelman 2000)。国家政府は、それゆえに新しい別の政策発展のための計画的行動への余裕があまりない。政府は、国家の経済的、社会的未来の状態や方向性について独立した決定をする能力を失ってきた(Bauman 1998; Beck 2000)。これは、重要な政策決定における民主的コントロールの事実上の喪失によって起こった。何億といいう人々の未来に影響する重要な決定が、選挙で選ばれたのではなく、その正体が世界人口のほとんどに知られていない個人やグループによって実行されているのである。伝統的政策論説は、国民国家の領域で主として形作られてきたが、現代性に欠けたものではないにしても、今こそそれらの変化に対応するために再構成する必要があるだろう。次章以降において、ソーシャルワークの人権アプローチは、効果的な政策アドボカシーと発展が必要であることを論じている。そして、グローバル化する世界において政策形成の変化におけるコンテクストを理解する必要があるだろう(Deacon 1997,1999; Mishra 1999)。
国境を壊すことによって、グローバリゼーションが統一性と平等の世界をそれとなく(by implication)作り上げるというのは単純過ぎる思考である。グローバリゼーションとは、むしろ不平等の新しい形式を作り上げている。キャステルズCastells(1996, 1997, 1998)は、‘ネットワーク社会’には、新しく登場した権力のネットワークが存在し、新しいコミュニケーションテクノロジーを媒介として国境を超えて繋がり、人の富、権力、影響は、それらのネットワークに繋がっているかどうかによって決定されると論じている。それらの権力ネットワークは、国境を考慮しないので、どの社会においても一部の人々は新しいグローバルネットワークに含まれるが、その他の人々は繋がっていない。それゆえ、不平等は国民国家の境界線によって規定できなくなっている。権力のネットワークにアクセスすることで、利益を受ける人々やコミュニティが存在する一方で、そこから除外・排斥される人々が出てくる。私たちは、国境を利益、不利益の比較上の決定要素として考えがちである。例えば、豊かな国と貧しい国、先進国と開発途上国という分類がある。まだ継続する不平等が世界の豊かな国と貧しい国の間に存在し、そのようなカテゴリー化による明らかな妥当性がある一方で、そのような考え方は最貧国社会においてでさえ裕福なエリートがいて、豊かな社会にも貧困(度々最悪のレベルで)が存在している事実を隠してしまう(Riches 1997)。まさに、国家内での不平等は増大している明らかな証拠があり、キャステルズCastellsの分析は、ネットワーク社会の登場によってこの傾向がさらに続くことを提示している。
グローバリゼーションが、単に不平等を増大させると論じることも単純すぎる思考である。グローバルな不平等は、新しい現象ではなく、二世紀におよぶ植民地主義、グローバル資本主義の悲劇的結果である。変化したものは、不平等世界の低俗な現実ではなく、不平等の境界線である。グローバリゼーションとは、国境が不平等の境界線としてあまり重要でなくなることである。資本主義が‘グローバル化’すればするほど、結果として起こる社会的・経済的不平等は、国境とは関係しないパターンで単に分配されていくのである。そういうわけで、ソーシャルワーカーがその実践の本質として中心的に関わっている不平等の特性を理解するためには、国際的分析と国際主義者の視点が必要である。人権は、その普遍主義によって、その観点を発展させる試みを示している(第4章参照)
私たちは、グローバリゼーション自体は新しい現象ではないというハーストとトンプソンHirst and Tompsonの主張に疑問を持つことも可能であるが、それでもはやり、グローバリゼーションの多くの部分は、長期にわたり存在してきた。つまり、資本主義、植民地主義、結果として起こっている搾取、抑圧は、陰うつ的に慣れ親しんできたものであり、グローバル化した経済の新しい創造物とはいえない。しかし、このことは新しい現象としてのグローバリゼーションに対する新たな分析が必要であると主張する人々によって事実上否定されている。‘私たちは新たな問題に対する新しい解決策が必要である’との繰り返しは、この課題を理解および処理するために必要な本質的分析の枠組みを排除することになる。多くの場合、グローバリゼーションは、単に資本主義、家父長社会、現代資本主義の合理性、植民地主義の搾取の論理的延長であり、それらの現象を批判している知的枠組み―マルクス主義、フェミニズム、ポストモダニズム、ポスト植民地主義は、経済的グローバリゼーションの批判および実現可能で公正な代案の模索にとって重要である。
グローバリゼーションの古い側面、新しい側面の両方を理解することは重要である。多くの場合、私たちが見ているものは、階級・人種・ジェンダー的抑圧といった古くから知られていることへの新たなコンテクストにおける単なる再発明であり、それらの過去の抑圧に関係してきた人々の理論的、活動家的英知が今日の実践家に教えることは多い。グローバリゼーションに対する人々の闘いは、それゆえ全く新しいことではない。それは、ソーシャルワーカーが長く関わってきた古くからの闘いの新たな形である。一方で、グローバリゼーションは、新しい側面もある。情報やコミュニケーションの革命や現代グローバル経済活動のsheer scaleによってもたらされたものである。これは、新しい挑戦を導き、新しい機会をもたらす。ソーシャルワーカーは、グローバリゼーションの古くからの現象に精通し、新しい可能性に気付くことが必要であろう。これは次章以降で論じる人権の実践に特に関係が深い。
グローバリゼーションにおける現代的経験の特徴の一つは、排他的および経済的特性である(Brecher & Costello 1994)。20世紀の国際主義者運動を例として、世界平和、環境、社会主義、フェミニズム、もちろん人権と関係してきた他の国際的伝統も存在してきた。国際連盟、国際連合、赤十字、平和と自由のための女性国際連盟、セーブザチルドレン、アムネスティインターナショナル、グリーンピースなどのNGOの設立がそれらを代表している。それらは‘一つの世界’のための様々なビジョンに関わってきた。そのビジョンは、経済活動ではなく、普遍的人間性、グローバル市民権、国際理解と連帯、相互責任といった思想を基盤としている。しかし、近年国際的協議事項は、経済的事柄が中心となり、社会正義、平和、環境課題、人権は二の次となってきた。例えば、世界貿易における現代的経済通説は、地方経済への投資希望者は他の地域から呼ぶべきだ、若しくは国民に他国の経済問題に干渉することを奨励すべきだと論じている。まさに、WTO(世界貿易機関)は、他国の経済問題に国家間干渉を特に奨励するために設立した。政府や地域に投資や貿易の障害を作らせないために、結果として国家政府は、(アメリカ合衆国を例外として)今やそのような課題についての発言権を失っている。
貿易に関する国家的主権は喪失しているに等しい。しかし、人権についてはしっかりと存在している。抗議の叫びは、国境を超えた人権の問題に干渉の試みをさせようとしている。Human rights violations are seen as matters for careful persuasion and delicate negotiation. With an imperative not to offend national sensitivities; このことは、貿易交渉には大きく抜け落ちている。And If one government does not want to abide by international human rights standards little more can be done (unless, of course, there are other strategic interests in play, when human rights abuse can suddenly become an excuse for armed intervention).それはまるで経済に関するときは、一つのグローバル化した世界に生活し、人権のことになると独立した主権国家となっているようである(Chomsky 1998)。
そのため、グローバリゼーションの現代的経験はとても偏っている。経済問題のみに関係し、特に英語圏で1980年以来西洋経済政策を支配してきた経済原理主義のグローバル版の押しつけでしかない。この見方は、経済のニーズを最重要とし、すべての政策を基本的に経済発展と繁栄に連結することが必要であると提示している。社会正義や人権といった別の考えが、政策者の優先事項として経済にとってかわることはない。もしそうなれば、結果として経済沈滞には誰も関心がなくなるだろう。自由市場は、人々の自由選択の総計を代表するものとして頼られ、人間のウェルビーイングの最大限化を実現させるだろう。市場動向へのあらゆる干渉は、非効率化につながり、すべてが苦しむ結果となる(Rees et al. 1993; Saunders 1994)。この観点は、経済的目標を最高のものとし、すべての他の目標は、経済ニーズを必要なだけ補うものと定義する政策をもたらす。そのような経済原理主義は、特に西洋英語圏国において、ソーシャルワーカーにとって普通であり、福祉国家の浸食を正当化し、そのような浸食を経済的必要として定義するのに利用されてきた。それらは、ソーシャルワーカーの労働条件へ影響を与え、より重要なことは、彼ら/彼女らが供給できるサービスの質と量を制限してきたことである。私たちは、地球規模で同じ現象を見ている。国家レベルでのそのような政策を扱ってきたソーシャルワーカーの過去の経験を活かすことが再び重要なのである。
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グローバリゼーションの現代的経験の背景にある経済原理主義の証明は、たいへん重要である。多くの消費者団体、人権グループ、その他の国際主義団体の活動主義を含めたグローバリゼーションに対する反発は、世界がより近くなるというグローバリゼーションの現象へ向けてではなく、過去20年間に国際的協定を独占してきたグローバリゼーションの経済原理主義的形式に対してのものである。そのような反発を生じさせてきたのは、グローバリゼーションそれ自体の思想ではなく、民主主義的責務を腐食させてきたグローバリゼーションに対する限定的な経済的アプローチが、明らかに権力者の関心において可動し、不平等を悪化させ、狭く表現された‘グローバル経済関心’の中で人権と社会正義といった課題を排除してきたからである。この観点から、グローバリゼーションについての熱い議論と一般民衆による示威運動が現実となり、その内容はグローバリゼーションについてではなく、人権、社会正義、民主主義についての議論なのである(Rees & Wright 2000)。
このことから、人権の思想は、経済的グローバリゼーションの現代的プロセスに対抗する人々にとって、重要なスローガンとなってきた。私が論じてきたように、人権は一般に普遍的とみなされ、経済原理主義を拒否する人間性の普遍的理想において別の形態を表している。さらに、人権は、人間の価値、共有する人間性、グローバル市民権の構成(権利と責任を含む)が、新しいコミュニケーションや情報テクノロジーによってもたらされた‘新しい秩序’の中心を占めるべきだと主張している。これはフォルクFalk(1993, 2000b)およびブレッチャーとコステロBrecher and Costello(1994)(Keck & Sikkink 1998も参照)が主張している‘下からのグローバリゼーション’の思想と共鳴している。これらの著者は、現在経験しているグローバリゼーションは、‘上からのグローバリゼーション’として特徴づけており、豊かで権力のある者の関心であり、民主主義的責任もない。一方、‘下からのグローバリゼーション’は、‘普通の’人々の関心を中心としていたグローバリゼーションだろう。本質的に民主主義的であり、政策決定に最大限の参加を含み、狭い経済関心のみではなく、社会正義や人権の思想を基盤としている。この観点から、やるべきことはグローバリゼーションそのものに対抗するのではなく、経済的目的よりも基本的に社会的な別のグローバリゼーションに向かって努力していくことだ。そのような組み立てにおいては、人権の思想は、中心的役割を担い、グローバリゼーションに対する一般民衆の示威行動として利用された修辞的にもっとも強力な機会の一つとして証明されてきた。
グローバリゼーションの議論から離れる前に、ローカリゼーション(Localization)の傾向についても言及する必要がある。多くのコミュニティがローカルに新しい意義を見出すことによって、経済的グローバリゼーションに反発してきた(Cox 1997; Hines 2000)。個人およびコミュニティニードを満たすことに対するグローバル経済の失敗は、多くの別形式の通貨やLETSのような地域経済スキームをもたらした(Dauncey 1988)。巨大な銀行は、十分な地域コミュニティへのサービスをグローバル金融市場を支配してきたように提供することに失敗し、コミュニティバンクの設立を促してきた。同様に、教育、住宅、警察、コミュニティサービスの実験や様々な協同組合を基盤とした地域コミュニティがある(Ekins 1992)。それらの地域自発性は、実現可能・維持可能で、人間中心の方法があることをはっきりと示し、全体的に不安定で維持不可能なグローバル経済システムがそれ自身の重みで崩壊したとき(遅かれ早かれ避けられない)、可能性のある将来への方向性を示している。しかしながら、グローバリゼーションに対するローカルな反発の一部は警戒すべきだ。それは、市民軍や自警団の増加、偏狭主義・排他主義・人種差別主義、多くの国でのマイノリティのスケープゴードである。グローバリゼーションと同様にローカリゼーションは、それ自体に利益・不利益があるものではなく、人権を促進も侵害もしない。しかし、特徴的にローカルと共に活動し、排除や不寛容の政治に没頭するよりも、‘コミュニティ’とローカリズムの思想における関心の復活を進歩的社会運動へ変化させる重要なコミュニティデベロップメントの役割を担っているソーシャルワーカーにとって、特に関心のある現象である。
権利を基盤とした実践
本書の次章以降では、人権がソーシャルワーク実践の基盤としてどのように利用されているかについて論じている。ソーシャルワークは、人権に関係しているというのは自明のことかもしれないが、権利に対する重要性を与えないソーシャルワークの枠組みもある。一つは、ニーズを基盤としたソーシャルワークである。それは‘ニーズ’のアセスメントおよびそれらの‘ニーズ’を満たすプロセスを強調する。ニードの概念は、批判の対象となっているけれども、もちろんソーシャルワークにとって中心的概念となるものである。イリイチ(Illich et al. 1977)のような著者は、プロフェッショナリズムを批判してきた。ソーシャルワーカーも含めて、専門家たちは、社会の中で専門的にニードを定義する人々になり、クライエントを無能力化し、クライエントに彼ら彼女ら自身のニーズを定義させず、代わって彼ら彼女らのニーズを定義してきた。ニーズを基盤とした実践には、別の課題もある。しかし、人間のニーズの考えは、複雑に人権思想と関係している。ニーズと権利の関係は、第5章で探求されるが、本書のメインテーマであるソーシャルワークに対する人権アプローチの重要な側面を表している。ここでは、‘人間のニーズ’は‘人権’とは別の枠組みを与え、権利を基盤としたアプローチの主張者は、ニーズを基盤としたアプローチよりも有益であることを論証しなければならないということを言及しておきたい。二つ目の別の枠組みは、ソーシャルワークに対する正義を基盤としたアプローチである。もしほとんどのソーシャルワーカーが実践の価値基盤を要約すれば、たぶん‘人権’よりも‘社会正義’という言葉を使うだろう。ニーズと同様に、権利と正義の間には明らかな関係がある。しかし、純粋な正義アプローチは二つの問題を持っており、人権アプローチはそれらの問題を克服できる。
一つは、正義は単なる復讐を含有している。‘私たちは正義を要求している’は、死刑、応報的罰といったような主張者から一般的に聞かれる要求である。ほとんどのソーシャルワーカーが少なくともサポートするのをためらい、強く反対する。ソーシャルワークに強い正義論理を利用することは、この意味のようにあまり進歩的とはいえず、報復の政治を正当化することを助けるに過ぎなくなる。二つ目の問題は、正義はたびたび手続き的に定義されるからである。正義的である、公正に扱うということは、法律を正義的に、公平に、公正に執行することである。法律そのものは、しかし、とても差別的で抑圧的である。いわゆる‘正義システム’は、不公平な法律の効果的な公正なる執行をもたらす。これはまさしく、植民地主義の歴史である。たびたび残酷な行動は、判事・法廷・法律といった‘正義’という明らかに精錬潔白なシステムの虚飾によって正当化された。同様に、手続きへの限定した強調は、ソーシャルワーカーにとって問題である。なぜなら、現存するシステムの正当な執行・運営に集中した実践になるからである。さらにシステムそのものにある不平等や構造的抑圧に立ち向かうことなく、クライエントは資格のあるものだけを受け取ることを保証しているのである。その意味において、存在する秩序を受動的に受け入れ、単に良くなることを試みる保守的実践という結果となる。システムそのものが、不正義・不公正であれば、そのような実践は不十分である。
正義への応報的・回復的アプローチを区別することは一般的である(Fatic 1995)。応報的アプローチは、仕返しを求めるものである。法を破った人、モラルに反して行動したこと、人権侵害を犯すことは、確認され、追跡され、犯罪に対して償わなければならない。正義が実行され、実行されたように見えるのは、厳格な報復によるものである。これは、犯罪者への罰であると同時に、その他の人々への抑止力でもある。回復的アプローチは、反対に権利が侵害されてきた人々を補償する。それは、報復を求めることに関心を持つものではなく、不正を認め、すべてのことを和解の精神に向けることを許すことである。この二つの対応は、ルワンダ、東チモール、旧ユーゴスラビアで起こった人権虐待行為への二つの対立するアプローチによく現れている。報復的アプローチは、戦争犯罪裁判や法的機関を設置し、罪が立件・有罪判決、‘正義をもたらす’ことを望んでいるが、回復的アプローチは、南アフリカでの真実と和解のプロセスによって示されたように罪の人権侵害に対抗し、公共の理解を求めることである。回復的アプローチ(尊厳、繁栄、平和、安全、コミュニティ、尊敬、侵害されたものすべてを‘回復’することを求める)は、ガンジーの非暴力の原理を基盤としている(Little 1999)。それは、暴力の連鎖を増大することではなく、壊すことを求め、対立の解決のためによりラディカルなアプローチを提供することである。この報復的・回復的正義の区別は、例えば、青少年犯罪、家庭内暴力、家族問題、人種差別暴力の処理において対立する方法において、個別的レベルでも反映される。ソーシャルワーカーが熟練した専門的技術・能力を持つフィールドであり、国際人権論説が主要な課題となるにつれて、ソーシャルワークの専門性が貢献できる主要な領域となるのである。
‘正義’が問題であり、論争される一方で、‘社会正義’の思想がソーシャルワークに不適切であるということを論じているのではない。それは、次章以降でも多く述べられている。しかし、ソーシャルワークのための人権の枠組みは、上記に述べた正義に関する困難性を乗り越える。ソーシャルワークが、報復の政治といった純粋な報復的アプローチを超えて、応報的‘正義’への反発的要求への批判を提供する。なぜなら、人権を侵害しているとみなされるからである。そして、人権は構造的原因から方向転換しない。次章以降でも論じられるが、人権アプローチは立ち向かうことを要求している。
人権アプローチは、それゆえに‘ニーズ’や‘正義’の思想がソーシャルワーカーにとって価値がないと意味していない。反対に、ソーシャルワーク実践の輪郭として重要な位置を占めている。さらに、実践家が強く共鳴する言葉でもある。それらの言葉を独立して理解するとそれぞれ問題もある。しかし、次章以降において、人権の枠組みを基盤としたソーシャルワーク実践はニーズと正義の思想を向上させ、文脈化し、それらの思想はさらに影響力を持ち、効力のあるものとなる。
本章で論じられたほとんどの課題は、次章以降で再び探求されるだろう。本章は、ソーシャルワーカーに特に関連し、人権専門職としてのソーシャルワークを構築するために関係している人権の課題についての入門的概説であった。人権の領域は、概念的曖昧さを持つ;その曖昧さは社会的・政治的哲学についてのもっとも基本的疑問をもたらす。これらについてはその分野の本において触れられることである。これらの問いへの詳しい哲学的検討を求めている読者は、他書を見てもらいたい。本書は、本質的にソーシャルワークの理論と実践の経験に基づいており、この文脈における人権の議論に限定している。
第2章
3世代の人権
人権についての学問的な研究は、法学、哲学、政治学といった学問に独占されてきた。もちろん、ソーシャルワーカーも特に福祉の権利、権利を基盤とした実践、特別なハンディキャップを持った人々の権利について議論をしてきたが、人権及びその意味についての徹底的な分析はソーシャルワーク研究において重要とはみなされなかった。人権の実践(本書のメインテーマ)において、現場は主要な人権専門職として広く認められている法律家たちに独占されてきた。ほとんどの人権についての研究論文なども法律家によって書かれたものであり、法学が一般的に人権を守り、人権侵害を予防する基本的な体系であるとみなされている。そして、多くの場合立法、人権宣言、規約などの分析や解釈が中心に研究されている。多くの国には人権委員会が設立され、法学出身の人を中心に法律的方法によって運営されている。
法律的プロセスや法律家の実践によって人権の設立や擁護が発展してきたことは事実である。しかし、法学的な人権の枠組みは人権の領域とその実践の可能性を制限することもある。そのことでソーシャルワーカー、コミュニティワーカー、法律家によらない活動が排除され、無力化し、さらには、人権に関する重要な領域が無視される可能性もあるのである。ソーシャルワーカーはアドボカシーを中心とするよりも、人権実践の中心として活動できる可能性を持っているのである。
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3つの段階を定義する
人権は3世代の発展の歴史を辿ってきたと言われている。この類型は人権の枠組みの説明において中心となっている。
人権の第1世代は、市民的・政治的権利であり、18世紀の啓蒙思想及び自由政治哲学の発展の中心的な知的起源である。それらの権利は、個人を基盤とし、民主主義と市民社会を効果的に構成するためにもっとも重要な根本的自由を基本としていた。選挙権、言論の権利、自由な集会の権利、公平な裁判と法の下の平等の権利、市民権、プライバシーの権利、自己表現の権利、宗教の自由の権利、公務員任命権、社会と国家における市民生活に参加する権利である。さらに、尊厳を持って扱われる権利、安全の権利、差別からの自由の権利、おどし、嫌がらせ、拷問、弾圧からの自由の権利、これらの権利は個人の価値の自由主義的概念を基本としており、‘守られる’べきであるという強い考え構成している。
この‘守る’ということに対する強調の理由は、第1段階の権利は消極的権利と呼ばれ、実現されるというよりは守られる、人が所有しているものとして扱われている。国家はそれらの権利が脅かされないよう擁護することを要求される。つまり、人権侵害の防止及び権利の擁護であり、積極的な権利の供給や実現は含まれない。
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このように第1世代の人権は‘自然権’として定義され、自然の摂理として人間が所有しているとみなされている。この第1世代の人権を保護するための伝統的な方法は、法律的メカニズムにより構成されている。権利章典や国際人権規約は、人々が権利の侵害や否定に対して訴えるためのメカニズムを提供するため、もしくは権利を侵害した人を罰するために、市民的・政治的権利を定義してきた。これらの法律的枠組みの効果は、一様ではなく、むしろ効果が見えない場合も多い。アムネスティやヒューマンライトウォッチのレポートによれば、国際連合の条約している国も含まれているし、基本的な第1世代の権利を日常的に侵している国内法を認めている場合もある、allow such abuse to be carried out with impunity.
第2世代の人権は、経済的・社会的・文化的権利として知られている権利の集合である。これらの権利は、人間としての最大限の可能性を実現するために様々な形の社会的供給やサービスを受けることを指す。雇用、十分な賃金、住宅、十分な衣食、教育、医療、社会保障、高齢になっても尊厳を持って扱われること、レクリエーション、娯楽などの権利である。これらの権利は、19世紀、20世紀の社会民主主義、社会主義、共同体主義において発展してきたといえるだろう。そのような共同体主義は、自由主義のように西洋の政治社会でそれほど受け入れられていなかったので、第2世代の人権は、国家の義務の範囲などについて今だコンセンサスを得ているとはいえない。例えば、国家は働く権利を保障すべきか?人間はそれぞれが好きな仕事を与えられるべきか?などの問いについてのコンセンサスである。
第2世代の人権は、国家が活動的、積極的な役割を担うことを要求するので、‘積極的権利’と呼ばれている。国家は、実際に権利が実現されていることを証明する強い役割を持っている。第2世代の人権は国家に強い先導的役割を要求しているので、たびたび第1世代の市民的・政治的権利以上の議論になり、法律的・憲法的な保障は弱くなる傾向にある。
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第2世代の人権は、法律的・憲法的なメカニズムでは保障できない。国際人権規約のような人権に関する様々な規約があるが、一般的に効果的であるとは言いがたく、罰や制裁を課すことも難しい。人権侵害に法律的プロセスで対応するという考え方は、第2世代の権利には当てはまりにくい。例えば、教育システムの不備を理由として、政治家を人権侵害として裁判書に訴えることは現実的に難しい。法律的システムは、人々に権利実現の支援においては利用しにくいため、法律家は第2世代の人権実践においてその中心となりにくいのである。
第3世代の人権は、協働的・集合的なレベルで定義されるときのみ成立する。この権利はコミュニティ、住民、社会、国家に帰属し、個人は直ちに関係ない。しかし、それらの実現は確実に個人に利益をもたらす。これらの権利として、経済発展、世界貿易及び経済成長による利益、団結し平和協調している社会に生活すること、汚染されてない空気を吸うなどの環境権、きれいな水・自然を体験できることなどが挙げられる。
これらの協働的権利は、20世紀になって初めて人権として認められた。これらの権利は、植民地主義、維持不可能な経済、社会開発に対する対抗、植民地住民の自己決定権の促進、環境活動家の戦いなどから発生したものである。一方で、協働的権利に対する法典や協約は未だ予備的・未発達な段階であり、具体的な権利の擁護や実現の法的メカニズムは存在していない。特に西洋政治システムにおいて多くの人々が協働的権利を人権と認めていない。なぜなら人権の構成や人間であることがどういうことかについて、個人自由主義が独占支配をしているからである。しかし、第3世代の人権は、人権論争において重要な鍵となる概念である。西洋思想の独占に対する批判やアジアの価値と呼ばれる人権は、西洋社会の第一世代の人権独占に対する第3世代の強い主張なのである。
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第1世代の人権の支配
人権について論じるとき、多くの人にとっては第1世代の市民的・政治的権利を意味する。メディアや政治家たちがある特定の国の人権記録を討論するときは、大抵その国の医療、教育、社会保障システム、環境基準の充実度については言及しない。むしろ、政府が市民的・政治的権利の侵害に対する擁護について十分であるかどうかについて議論するだろう。それゆえ、‘人権ワーカー’という言葉は、第1世代の人権侵害(政治犯、公正な裁判なしの監禁、拷問、必要以上の法的処刑、難民国外退去、政治的異議への抑圧、労働組合の抑圧、警察や軍隊による暴力)から守るために働いている人々を想像させる。ソーシャルワークにおいて、人権活動はほんの一部のソーシャルワーカーの活動領域であるという考えにつながる。だが一方で、第2・第3世代の権利を統合することは、すべてのソーシャルワーカーを人権活動家として定義づけるのに効果的である。
市民的・政治的権利への人気集中および‘人権’と第1世代の人権との同意傾向には、いくつかの理由がある。歴史的に独占してきた西洋政治体制において、市民的・政治的権利は、18世紀以降重要な政治思想となってきた。第1世代の人権と自由主義の関連が意味することは、それらが自由民主主義のプロジェクトとして正統性を発展させてきたことである。この自由主義的基盤は、市民的・政治的権利を受け入れ可能にし、西洋政府や西洋メディアを脅かさなかった。そして、自由主義基盤がグローバルな政治体制を定義し、国際的な人権事項を決定するために強力な役割を果たしてきた(Chomsky 1998)。
第1世代の人権への関心が集中している状況は、政治的に政府にとって利用しやすいともいえる。医療、教育、福祉の公的サービスを縮小させる一方で、政府は好成績な人権記録を主張することができるからである。第1世代の人権は、公正な社会にとって必要不可欠であるが、それらは社会的平等や社会正義を作りだすことはない。そのような目標を達成するために、少なくとも第2世代の人権が考慮されることが必要であり、社会正義の前段階として第3世代の人権も含むことも必要になる場合もあるだろう。しかし、第2、3世代の人権は費用がかかる。第1世代の人権を守るためにも公的支出は必要だが、第2、3世代の人権を満たすために必要な公的支出のレベルはさらに増大する。そのような理由から、ほとんどの政府が経済のグローバル化時代と公的社会的支出削減への信仰によって準備してこなかった。人権保障プログラムの定義および施策実施による政府責任の増大を回避するために、政府が人権の第1世代のみをより受け入れる姿勢を持つことは驚くべきことではない。
第1世代の人権が支配しているもう一つの理由が、多くの団体による人権キャンペーンや人権活動主義にある。疑いなく国際的にもっとも知られている人権団体は、アムネスティインターナショナル(以下、アムネスティ)である。アムネスティは、少なくとも最近までほとんどの場合‘人権’を市民的・政治的権利の範囲に狭く定義してきた。そのため広い意味での人権教育、人権意識向上の運動はしていたが、医療、教育、環境についてのキャンペーンは実施していない。専門的団体として特定の分野に集中してきたことは理解できるが、人権団体として先導的立場にあるアムネスティがその分野に集中することで、‘人権’はアムネスティが活動している分野、つまり政治的・市民的権利であると結果的に定義してしまう状況を作り出しているのである。(アムネスティの使命は年報においてインターネット等で閲覧可能である)。
第1世代の独占の別の理由として、法律家の人権分野での活動が挙げられる。第1世代の人権は、法律、条約、規則、法的制裁によって擁護および保証され、これが暗黙のうちに活動家たちにも受け入れられている。そして、当然のように法律実践の範囲とされ、活動家や弁護士たちが第1世代の人権擁護の先頭に立っていることは疑いない。しかし、第2世代の人権は、政策形成、政治変革、対人サービスの計画、提供等といった法的保障以上に複雑で数多くの過程を必要とする。つまり、法律家よりもソーシャルワーカーにふさわしい領域といえる。同様に第3世代の人権は、政治家、経済家、環境活動家、コミュニティ開発ワーカーの分野として見られがちである。
法律職は、現代西洋社会において強大な権力を持ち、法的行動は訴訟等を通して問題解決を探る方法としてもっとも適切であるという見解が増加している(Carty1990)。弁護士は不釣合いに国会、政党、社会のパワーエリートを代表しており、議会政治は特にディベートを中心とした法律モデルを基盤に設立された。このような状況の中で、人権の構成が法律的定義および実践とほぼ同様であることは、驚くべきことではない。
人権をジェンダーの観点から分析すると、第1世代の人権の独占に対するもう1つの理由が分かる。第1世代の人権は、多くの伝統的な男性の役割を擁護している。公共的な地位にある人、市民的・政治的生活において活発に活動している人、公然と反論している人のみを擁護しているともいえる。特徴的にそのような人々のほとんどが男性である。‘市民的・政治的’という言葉は、人権が家父長的構造においての男性独占と直結する要因にもなっている。それゆえに、市民的・政治的権利への集中状況は、男性の伝統的権利への集中状況になるのである。多くの女性にとって、家庭内暴力、レイプ、搾取、経済的依存、自己表現や社会参加の機会否定などの人権侵害は、‘市民的・政治的’領域ではなく、家庭内で起こっている。すべてとは言わないまでも、そのような人権侵害の事実が、伝統的な第1世代の人権の理解では無視されてきた現実がある。市民的・政治的権利の集中状況は、家父長的構造と論説の結果であり、西洋自由主義構造と論説の支配をも表しているのである。
上記の問題については、ソーシャルワークの原則に一致した人権への発展的アプローチとして後の章で取り上げる。ここで重要なポイントは、人権が第1世代の人権における伝統的西洋的家父長的な前提の域を越え、人権に対する議論を呼び起こし、第2、3世代の権利を包括した概念を取り入れることである。
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多様なパースペクティブとの関係
法律を超えてBeyond the legal
3世代の人権を組み入れた人権の構成によって、慣習的な見方による限界を超える概念化が可能になる。第一に、既に提案しているとおり、人権の法律的枠組みを超えることができる。人権論説における法律分野の独占は、思考及び実践の範囲を限定してしまう。条約、協定、制裁、施行などの法律的アプローチが重要でないといっているわけではない。明らかに、この法律的枠組みの中で市民的・政治的権利は実現されてきたのである(Mahoney & Mahoney 1993)。しかし、人権実践の思考にある法律的ヘゲモニーは、他の知的、専門的な伝統の貢献の可能性を狭めてきた。さらには、法律によって擁護しやすい市民的・政治的の権利のみを強調してきた。
法律的枠組みから離れることは、第2、第3世代の人権が真剣に取り扱われ、それぞれの関係性も強調することになる。そのためには3世代の人権の枠組みを統合する理論的枠組みが必要である。つまり、人権の消極的擁護だけでなく積極的実現も含めて実践していくことである。人々の人権を実現するためには、サービス、資源、機関の供給における政府(歴史的に実施されている所はどこの機関においても)の役割が重要になる。それゆえに、法律的実践の範囲を超えて人権の実践思想を広げることができるのである。このことが他の専門職、特にソーシャルワーカーにとって重要な意味を持つ。
西洋を越えてBeyond the western
18世紀の西洋自由主義との関連を持つ第1世代の人権が、西洋社会で特に重要な関心が持たれていることは理解できる。第1世代の人権は、一般的に西洋社会の中で事実上の強い擁護を受けていた。人権の論説は、暗黙のうちに第1世代の権利に限定される一方で、人権は西洋の特権であり、他の文化的伝統を支配するための西洋文化の口実を提供しているという非難が強い。しかしながら、他世代の人権は文化的伝統を超えて共鳴している。第2世代の人権の関心は、従来型の‘発展’への批判(Beetham 1999)であり、公的サービスを削減し、低い医療・教育・住宅水準を要求しているという古典経済学への批判である。32pこのように第2世代の人権は、経済的に発展した西洋世界以外の多くの国々の関心を集めている。そして人権の論争が、発展の西洋モデル批判にまで広がっている。発展の権利や健康的環境に対する権利を中心とした第3世代の権利は、‘開発途上’国の文化においてさらに強い主張を持っている。この観点によれば、人権に対する‘アジアの批判’は本質的に人権に対抗しているわけではなく、第3世界の国々における第3世代の人権に対する主張を排除してきた人権の西洋支配への批判である(Woodiwess 1998)。
人権の重要な側面の一つとして、不分割性と相互連結性がある。強い概念性と実践有効性を備えた人権の枠組みは、多様な世界において第3世代の人権を含む必要がある。他の人権を犠牲にしてその他の人権のみを強調してはいけない。人権における伝統的西洋的構造の限界を超え、西洋の知的ヘゲモニーのもう一つの形として人権批判の再評価の発展が必要なのである。
家父長制を超えてBeyond the patriarchal
第3世代の人権をより全体的な視野で捉えることは、人権の構成における一般的な第1世代の人権への集中の背景にある家父長的前提を変化させることもつながる。人権の課題に女性への特定の関心を組み入れることにもなる。そして、市民的・政治的社会における男性参加者の特権に対して有効に働き、人権の擁護と保障の主要な利益をもたらす。
フェミニスト分析の導入は、より包括的な人権の枠組みにおいて重要な要素となる。これは理論的レベルにおいてだけではない。人権の実践が第1世代の人権に限定され、法的メカニズムによってのみ擁護される限り、人権の実践は本質的に対立的、競争的、男性的である。フェミニスト実践の形式は、合意形成、集団的意志決定、紛争解決などの人権ワークの理解に対する新しい視点を加えることができる。
フェミニスト視点のさらなる重要な貢献は、個人と政治をリンクさせたことである(Coote and Campbell 1982)。この考えは、人権が市民社会の公共的価値としてだけでなく、個人的、家庭内経験としても理解されることが必要であり、さらにはその二つの領域が連結することが重要である。人権は個人的かつ政治的であり、人権の実践はそれらがうまく結合したとき初めて効果的となるのである(第3章参照)。
ポストモダンを超えてTowards the postmodern
上記の議論は、ポストモダンの枠組み上での人権の再構築、脱構築を通したポスト植民地主義、フェミニズム、ポスト構造主義の批判の重要性を強調している。もし人権が人間のニーズ、希望、ビジョンが結合した真正の論説ならば、法学を修めた西洋男性以外の人々を尊重することが必要である。このことは、意見の多様性には価値があり、普遍的真実の主張は疑うべきものであるというポストモダニズム的思想につながる(Harvey 1989;Seidman 1994;Kumar 1995)。しかし、そのような視点での人権の議論には特別な論理的問題がある。人権は普遍性についての論説である。人権思想の本質は、共通なる人間性の結果としてすべての人々によって主張できる権利が存在するということであり、人権を主張するための闘いは、まさに人間の‘精神’の普遍的論説を主張する闘いである。そのような論説の可能性を否定するポストモダニズムは、人権の概念と両立しないものであり、否定的又は懐疑的なポストモダニズムは人権に関することにおいては認められない(Rosenau 1992)。
しかしながら、ポストモダンの批判がすべて拒絶されるわけではなく、ポストモダニズムの‘積極的’および‘重要な’構造は、普遍的人権の構造と両立する部分がある(Rosenau 1992;Pease & Fook 1999)。しかし、両者に避けられない緊張は存在し、人権に関係している人々はこの緊張関係に対処していかなければならない。緊張と矛盾に対処することはソーシャルワーカーや対人援助者にとって特別なことではなく、この緊張への実践的探索でもある(後の章のテーマでもある)。批判理論のパラダイム―つまり人間の苦痛や抑圧といった普遍的テーマの重要性を認識すると同時に、別の意見や切望に価値を置き、正当化しようとすることは分析の枠組みの一つとして利用される(Geuss 1981;Fay 1987;Ray 1993; Touraine 1995)。人権を主張し、実現するための闘いは、普遍的テーマとして定義されているものと異なった構造において存在し、広範囲な合理性に基づいた批判的パラダイムは特に有効な視点となる(Habermas 1984)。
実践
ここで議論される多くのテーマは、次章以降でさらに詳細に論じる。この章の最後に、ソーシャルワーク実践のための人権の幅広い概念化の方法について論じたい。ソーシャルワーク実践を3つの世代として理解することは、人権専門職としてのソーシャルワークの枠組みにとって重要である。
第1世代実践:アドボカシー
第1世代の人権は、特にアドボカシーモデルに関連する重要なソーシャルワークの領域である。そのような分野のソーシャルワークは、かなり狭い伝統的な意味でのソーシャルワーク業務として特徴づけられる。市民的・政治的権利は全く公共的な論説としては論じられないが、アムネスティやヒューマンライトウォッチなどが報告しているように世界中の多くの国々で容易に侵害されたままである。ソーシャルワーカーは、アドボカシーグループ・難民との協同行動、刑務所改革、十分な法的保護、行方不明者家族のサポート、地域法律センターでの活動を通して、市民的・政治的権利擁護のための重要な役割を果たすことができる。一方、そのような活動に関わることで、ソーシャルワーカー自身が第1世代の人権侵害の犠牲者となることもある。ソーシャルワーカーも、社会正義に対する責任によって、時には直接、抑圧的政治体制に対抗することもあり、権力者が好まない問いを投げかけ、不利益者が危険な場合に代わりとして代弁することもあるからである。1988年に国際ソーシャルワーカー連盟は、人権委員会を立ち上げ、非友好的環境でソーシャルワークを実践する結果として拘留されてきた人々の解放のために、危険を背に活動するワーカーをサポートしてきた。
そのような第1世代の人権実践は、市民的・政治的権利が毎日のように侵害される状況においてたいへん重要である。重要な視点の一つは、第1世代の人権侵害が世界中に拡大化していないという現実である。つまり、多くの先進諸国の強い民主主義的、法律的構造では極端に侵害は少なく、少なくとも極端に‘第3世界’や‘開発途上国’に集中していることである。先進諸国を優位にし、先進化させ、人種差別主義者や入植者を存在させてきた第1世代の人権の枠組みにつながっている。うんざりするほど多い第1世代の人権侵害は、先進諸国が精神的優越感に浸る一方で、第3世界を説教し、後者の明らかな未発達性を見せびらかしているようである。ソーシャルワーカーにとって重要なことは、そのような人種差別的・植民地者的人権の枠組みを脱構築することである。これは、第3世界における人権侵害の歴史的・政治的な側面を指摘し、緊張状態、紛争、汚職、虚弱な法律システムが、植民地主義者による支配と抑圧の歴史、文化的尊重ではなく植民地者の要求や地図作成者の気まぐれを反映した国境、世界不平等を促進させる経済グローバリゼーション、先進国によって定義づけられた‘グローバルコミュニティ’に参加するために不正に装備したままで近年独立した国の植民地者の人種差別的態度によって、いかに引き起こされてきたかについて説明することである。もう一つ重要なことは、第1世代の人権侵害が第3世界にのみ起こっているのではないことである。先進諸国でもオーストラリアの先住民迫害、アメリカの死刑制度のように第1世代の人権侵害は存在する。旧ユーゴスラビアでの人権侵害は、ヨーロッパ諸国が第1世代の人権に対する残酷な侵害と無関係ではないことを表している。ホロコーストは、西洋文化を持つもっとも市民社会化したヨーロッパ諸国―ベートーベン、シューベルト、ゲーテ、シラー、カントが生まれた土地で発生した。つまり、政府は人類に対するもっとも残虐な罪を犯す危険性を持っているのである。
そのような政治的分析や歴史的考察は、第1世代に限定された意味での人権侵害を理解する上でたいへん重要である。侵害は国際的な勢力と関連しており、単なる特別な国の特定のグループによる非難であると見てはいけない。システマティックな分析はソーシャルワークの中心的特徴であり、もっとも大きな強みでもある。犠牲者を非難する典型的な現象は、日々のソーシャルワーク実践でもみられるが、同様に第1世代の人権侵害の主張にもあてはまる(Jamrozik & Nocella 1998)。このようなことを防ぐためにも、ソーシャルワークの人権拡大への貢献は重要である。歴史的、政治的文脈の中にソーシャルワークを意識的に位置付けることは重要である。歴史、政治、文化の研究は、ソーシャルワークにとって必要不可欠であり、ソーシャルワーカーは、‘目に見える問題’を処理することよりもむしろ、ワーカー・クライエントと歴史的、政治的環境との関係性について理解することが必要になるのである。
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第1世代の人権の領域におけるソーシャルワーク実践について考えるとき、ソーシャルワークのアドボカシーモデルは明らかに重要である(Bateman 1995)。ソーシャルワーカーは、たびたび個人や不利なグループを代弁する。しかし、そこにはいくつかの問題が生じる。アドボカシーは必ずしもソーシャルワークに直接的に関係のない法律的実践の形である。弁護士は、アドボカシーと専門職としての司法的武器を分離することができた。そのために代弁者は、対立する議論や関心について考慮する必要がない。これは裁判官及び判事に任されるのである。一方、ソーシャルワーカーは、たいていそのような快適さをもちあわせておらず、単に一方を代表するのではなく、判断を含む‘アセスメント’をすることをたびたび期待されている。
アドボカシーのもう一つの問題は、潜在的に無力化させることである。アドボカシーは、ある人、グループ、家族、コミュニティを代表又は代弁する。無権力者や不利益者にとって、別の代弁者を見つけることは最後の手段であり、本来はその人自身が話せるようにエンパワーすることが重要である。単にソーシャルワーク援助関係を持ち、アドボカシーの役割を担うことは、関わっている人々の無力化を一層進めるといったとても伝統的な実践スタイルである。多くのソーシャルワーカーによって使用される‘アドボカシー’という言葉の根本的性質によって状況が悪化する可能性もある。
アドボカシーモデルに対する上記の批判は、アドボカシーがソーシャルワーカーによって行われるべきでないということを論じているのではない。アドボカシーが重要であり、それが人権と社会正義の目標に貢献しているケースは数多く存在する。重要なことは、アドボカシーが無批判的に必ず進歩的な実践の形式として採用されるのではなく、注意を持って利用されることである。もしアドボカシーがIf advocacy is not to be conservatising, アドボカシーはクライエントのソーシャルワーカーへの依存を助長するのでなく、アドボカシーアプローチがどのように実際にクライエントの力に結びついているかについて明らかにするエンパワメントアプローチを実践しなければならない。このようなプロセスによるクライエントの積極的な関わりはたいへん重要であり、アドボカシーをよりエンパワメント的方法で再構築してきたソーシャルワーカーによって実践されてきた。これは第10章において対話的実践モデルとして論じられる。
第2世代の人権実践:直接実践、組織実践、政策発展、調査、アクション
第2 世代の経済的・社会的・文化的権利についての考察では、人権の論説がソーシャルワークの中核部分となる。一部のソーシャルワーカーだけが第1世代の人権に関心があるとみなされている一方、すべてではないにしても、ほとんどのソーシャルワーカーが第2世代の権利実現のために人々を支援することに関心を持っている。公共福祉システムにおいて、ソーシャルワーカーは、貧困や低所得で生活しなければならない人々に日々関係している。十分な所得や生活水準の権利、所得保障の権利保障は、ソーシャルワーカーの業務として重要な位置を占める。同様に、十分な保護施設や住宅の権利は、ホームレス、高齢者、障害者、乳幼児、母子父子家庭、難民のための適切な住宅供給に関心のあるソーシャルワーカーにとって基本的原則となっている。十分な医療水準の権利は、病院、保健センター、家庭医のソーシャルワーカーにとってもっとも重要な関心である。教育分野又は児童に関わるソーシャルワーカーは、教育の権利にもっとも主要な関心を持っている。ほとんどすべてのソーシャルワーカーは、年齢、障害、性別、人種、民族性、不十分な教育や訓練、地理的状況、世界企業、単純な不運などによって雇用市場にアクセスが困難である人々をサポートすることで意義のある仕事を持つ権利の保障に関係している。ソーシャルワークの伝統的なアプローチにおいて、第2世代の人権は、基本的最低基準の医療、住宅、教育等の供給といったソーシャルサービスの供給によって保障されるのが望ましいとされている。このような十分なサービス供給は、社会問題を解決する方法であるという多くのソーシャルワーカーの考えは、社会民主主義思想と完全に一致している(Bryson 1992; George &Wilding 1994)。多面的視点からの社会サービス供給といった社会福祉実践は、人々の第2世代の人権が保障されることに基本的に関心を持っている。このように普段の日々の実践において、個人や家族への直接サービスに関わるソーシャルワーカーは、人権ワーカーとしてみなすことができる。
組織的実践で働くソーシャルワーカ―は、例えば、マネージメントの役割や組織的開発において、第2世代の人権を守る役割を果たしているとみなされるかもしれない。そのような権利は、福祉国家、第三セクター(コミュニティセクター、非営利、非政府セクター)、民間セクターのいずれかの社会機関の業務を通して一般的に充足される。これらの組織をより効果的にするために働くソーシャルワーカーは、そのような機関の効果的で適切な運営を実施することによって、第2世代の人権を保障するために働いていることになる。
しかし、第2世代の人権がソーシャルワークにおいて重要である理由は他にもある。すでに述べているが、人権は政府による積極的な対応を必要とする。それらは積極的権利であり、守られるだけでなく、保障されることが必要である。そのためには、政府は、ネオリベラル経済の通説的パワーとそれに類したグローバル市場のパワーを維持することを困難にさせる医療、教育、住宅、雇用、所得保障の各分野での公的支出をしなければんらない。第2世代の人権の十分な実現は、衰退する福祉国家体制で資源が減少する状況の中、社会サービスに従事するソーシャルワーカーのみでは不可能である。もしソーシャルワーカーが、第2世代の人権に関する人権専門職であるならば、効果的な政策変更を導くように政治的な積極的活動が必要であり、そのことが社会供給の十分なレベルが必要な人々に届くことにつながる。これは当然にソーシャルワークにおける多くの伝統的マクロアプローチを人権実践の重要な要素として取り入れている。もし第2世代の人権が、政策形成構造(政府役人)かその他の人々(活動グループ)のどちらにしても、ソーシャルポリシー分析及びアドボカシーは明らかに根本的な重要性をもっている。そのような政策業務の一つが調査である(それが政府関係もしくはそれ以外で実施されたとしても)。変革のためのソーシャルアクションもまさしく人権のための重要な業務である。すべてのマクロ的技術は、ソーシャルワークにとって重要な位置を占める。それゆえに第2世代の人権実践の思想は、ソーシャルワークにとって不可欠であり、ソーシャルワーカーは人権業務に主要な貢献をしているといえる。
第3世代の人権:コミュニティデベロップメント
第3世代の人権は、集合的・協同的権利に関することであり、個人のみにあてはめるとあまり意味をなさない権利である。それは集団(地域、国家)に所属し、集合的側面において理解される必要がある。18世紀以降の西洋政治思想において支配的であった自由個人主義は、このような権利を軽視し、第3世代を新参者としての位置付け、第1、2世代と比較して、‘根本的’であるではなく贅沢であるとみられている。しかし、特に儒教の国々からの批判によれば、これらの文化では協同的権利がすでに基本的重要性を持っており、少なくともいくつかの状況においては第1、第2世代の権利よりも優先すべきであると論じている(Gangjian &Gang 1995; De Bary & Weiming 1998)。儒教的伝統は、社会的協調、連帯、大きな社会的ユニットに属している個人に価値を置き、完全なる個人の可能性が実現できる方法として扱われている。それゆえに、協同的権利は特に重要とみなされている。このように、第1世代、第2世代、第3世代という言葉は、歴史的登場の変遷及び西洋自由思想における優先性を反映した西洋の偏見を表しているのである。
第3世代の人権は、経済発展の権利、安定・団結した社会に属する権利、環境権、きれいで汚染されてない空気、水・食べ物の権利、人間が完全なる可能性を発揮できる物理的環境の権利である。人権についてのこのような理解は、伝統的で西洋第1世代的思考を拡大化させる。環境的行動主義を人権論争の一部と捉え、汚染の影響で苦しんでいるコミュニティを人権侵害が起こっているとみなす。また、人権と経済発展は明らかに関連があり、多くの反グローバリズム活動家によって論じられているように、経済発展は人権を侵害するという単純な見方を複雑化させるだろう。
第3世代の人権への西洋的過小評価は、西洋ソーシャルワークにおいても同じことが言える。多くの場合、実践の中心が個人、家族、ケースワークに置かれている。コミュニティを扱うソーシャルワーク(コミュニティワーク、コミュニティオーガニゼーション、コミュニティデベロップメント)は比較的主流から排除されてきた(Mullaly 1997)。多くの西洋諸国では、現代ソーシャルワークの主要でない一分野であり(特にアメリカにて)、ソーシャルワークの関心外に位置付けられている(特にイギリスにて)。ソーシャルワークがコミュニティワークの独占権を主張できないでいる(ケースワークやグループワークのように)一方、ソーシャルワーカーは、コミュニティワークを着手し、開拓してきた伝統がある。しかし、コミュニティワークは西洋社会においてより個人を対象とした療法的・公的福祉アプローチの中でもっとも低い位置を占めていた(McDonald 1999)。このように西洋ソーシャルワークは、第1、第2世代の人権における独占的な自由個人主義に影響されてきており、第3世代の協同的権利を軽視してきた。しかし、人々がソーシャルワークの共通目標として完全なる人間の可能性を真に全うするためには、個人及び協同社会が重要視さなければならない。そして、協同性を軽視する西洋の独占的個人主義は、疎外、孤独、憂鬱、自殺、罪、コミュニティ喪失、市民権や人間の精神についてのある特有の限定された個人中心の理解につながっている。
もし第3世代の人権が、人権専門職におけるソーシャルワークの枠組みとして理解されれば、コミュニティワーク(今後はコミュニティデベロップメントを使用する)は、決定的に重要になる。このような人権の協同的表現と実現は、西洋的論説を支配してきた人権における個人中心構造の中に含むことが可能である。これは協同的権利が個人の権利よりも重要であるということを論じようとしているのではない。むしろ、完全なる人間の可能性を実現するためには、両方が重要であり、必要である。より包括的な理解であるといえる。同様に、コミュニティデベロップメントがソーシャルワーカーにとってケースワークよりも優先度をもって重要であると論じてはいない。両方が必要であり、相互が補完する必要がある。もちろん、ソーシャルワークの実践モデルでは、マクロ・ミクロの区別をしないものも多くある(Fook 1993; Fisher & Karger 1997; Mullaly 1997; Healy 2000)。コミュニティデベロップメントや第3世代の人権の実現におけるソーシャルワークの役割を理解することで、私が他分野で発展させてきたコミュニティデベロップメントのモデルが有効になる(Ife 1995)。これは、コミュニティデベロップメントの総合的視野を持つことであり、それはコミュニティデベロップメントの6つの局面:社会的、経済的、政治的、文化的、環境的、個人/精神的:が結びついているものである。コミュニティデベロップメントが、6つの局面すべてにおいて起こっているものとして理解することが重要であり、コミュニティが最大限の発展を遂げるためにはそれぞれの局面が必要である。これはあらゆる単面的アプローチの原理主義を否定する。例えば、経済発展が地域発展を確実にするために必要なものであるという考えは、必要なものは個人の発展であり、残りは偶然と不思議にうまくいくなどである。ソーシャルワーク実践にとって、コミュニティデベロップメントが効果的に機能するためには、第3世代の人権を含んだ6つの局面のすべてが機能することが必要なのである。
社会発展は、社会構造、調和、相互交流を促進するためのコミュニティとの共同活動である。第2世代の人権を一般的に保障するサービス供給のための活動も含む。しかし、それは分離した個人のニーズよりもむしろ協同的ニーズ(コミュニティのニーズ)を基本として理解されている。コミュニティ経済発展は、コミュニティ主体の経済とグローバル経済のニーズに単に貢献するのではなく、コミュニティに利益を与え、増強・支援する持続的な経済活動のニードの重要性を認めている。政治発展は、コミュニティワーカーが、抵抗性・包括性・有効性を発展させるための方法をもったコミュニティで政策決定や権力構造に焦点をあてることが必要になる。文化発展は、コミュニティの文化的歴史、規範、価値、伝統の重要性を強調し、商品化とグローバライゼーションの文化に直面した中で、コミュニティレベルの文化活動を強化していくことを目標としている。環境的発展は、物理的環境への居場所やつながりの感覚が、人間のウェルビーイングにとってたいへん重要であることを示唆している。そして、幅広いコミュニティデベロップメントの構造の中で、環境保護と環境発展を統合することを試みている。環境運動の動きは、ソーシャルワークにとっていくつかの重要な教訓を与えてきた。すべての構造やプロセスにおける持続性のニードについてと、人間の状態と居場所の感覚、ローカル及びグローバルな環境の健康的な状態との関係のニードについてである。最後に、個人/精神発展は、個人の充実とコミュニティに必ず関係しており、人間的コミュニティの強い経験を通してのみ完全なる人間性を感じることができることに注目している。さらには、コミュニティの個人的、精神的側面は、無視されることなく、コミュニティ構造とプロセスの理解に含まれる必要がある。For some,このことは、個人的及び協同的に経験される精神性の重要度として枠組みづけられるだろう。それゆえに‘個人的’および‘精神的’という言葉が関連付けられてきたのである。 (詳細はIfe 1995)。
このようなコミュニティデベロップメントの6つの局面は、第3世代の人権のエッセンスを集約しているといえる。つまり、協同的又はコミュニティのレベルでの社会的、経済的、政治的、文化的、環境的、個人/精神的な発展に対する権利である。第3世代まで人権の理解を広げることによって、コミュニティデベロップメント理論、役割、技術を含めた人権専門職として、ソーシャルワークの理解を広げることができる。そのような幅広い人権に関する視点は、あまりに個人中心主義であり人権の集合的・協同的要素を無視してきた西洋的第1世代人権の理解に対する批判にもつながる。そして、人権についてのより包括的な理解および包括的なソーシャルワーク実践が実現可能になるのである。
まとめ
42p
本章のテーマは、人権についての我々の理解を伝統的な第1代の人権アプローチから第2、第3世代の人権にまで広げることであった。これは人権があまりに西洋中心、個人中心に論じられてきたことに対する批判を表明することにもつながっている。また、第1世代の人権の狭い論理的構造が、ソーシャルワーカーが人権実践家として中心的な役割を担うとみなされるための基盤になる可能性を論じてきた。つまり、たびたび分断され、論争のあったソーシャルワークの様々な側面:ケースワーク、アドボカシー、組織的実践、政策発展/政策アドボカシー、調査、コミュニティデベロップメント:を統合するための枠組みとして提起しているのである。本章で挙げられた多くのテーマは、人権実践の方法についても含めて、後章でも論じる。要約は下記の表のとおりである。
3つの世代の人権
|
第一世代 |
第二世代 |
第三世代 |
名称 |
市民的、政治的権利 |
経済的、社会的、文化的権利 |
集合的権利、協同的権利 |
起源 |
自由主義 |
社会主義、社会民主主義 |
経済学、開発学、グリーン |
例 |
選挙権、表現の自由、公正裁判、虐待・拷問からの自由、法律擁護、差別からの自由 |
教育、住居、医療、雇用、十分な社会保障などの権利 |
経済開発、経済繁栄の権利、経済成長からの利益、社会的共生、健全な環境、空気 |
機関 |
法律事務所、アムネスティ、人権ウォッチ、難民援助など |
福祉国家、第三セクター、民間市場福祉 |
経済発展機関、コミュニティプロジェクト、グリーンピースなど |
支配的専門職 |
法律 |
ソーシャルワーク |
コミュニティデベロップメント |
ソーシャルワーク |
アドボカシー、難民援助、亡命援助、刑務所改革 |
直接サービス、福祉国家運営、政策発展、アドボカシー、調査 |
コミュニティデベロップメント:社会、経済、政治、文化、環境、個人/精神 |
人権とソーシャルワーク実践を理解するための3世代の理論的枠組みは、人権を基盤としたソーシャルワーク実践を論じるために、次章以降で使用している。しかし、第1世代の人権への集中が、人権の思想が制限される唯一の要因ではない。続く章において、人権の概念化を他の側面からも進めていく必要がある。